とはいっても,入賞ではなくて入選ですし,数年に亘ってというのならともかく,たまたま一回だけ入選したからといって,屁のツッパリにならないことは重々承知しています.それにフォトコン自体には,全く夢も幻想も持っている訳でもありません.たまたま,この展示会の昨年のクリニックに参加して,その流れで,”ちょいと腕試し”と応募したら運良く入選したのが事の次第です.表現した結果として他人の評価を受けてみたかったというプリミティブな欲求からです.
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:: JPS展,再び
┣ photos w/ words
:: 自転車から眺める路上(エピローグ)
┏ Bicycle 自転車
:: 自転車から眺める路上
┏ Bicycle 自転車
自転車に乗って路面を眺める.ただそれだけのことである.おおよそどこの路上でも眼前には,鋭気のない,それでいて妙にべっとりとしたアスファルトが河のように広がっているだけなのだから.しかし,ある時,それだけでないことに気付く.
たとえば,道路補修の痕跡.それはほとんどの場合,にわかに気づかないように巧妙に処理されている.しかし,中には,余程急いでいただろうか,まるで子供の粘土細工のように荒っぽく,アスファルトが飴のように重ねられているところもある.そうした段差を乗り越えるときには,振動が自転車を貫く.それは衝撃波のようにハンドルに取り付く腕に伝わってくる.巧妙に処理されたところでも,後から切り取られた部分は隠せない.丸みを帯びた振動が貫く.
たとえば,アスファルトの表面の質感.コールタールの匂いがしそうな新舗装の路面では,まるで絹の上を走ってるように滑らか.一方,表面が風雨によって削られ,小石がその形を現わし,ザラザラになったところもある.アスファルトの質感はタイヤからハンドルに一瞬の遅れもなく伝えられる.まるで路面を手で撫ぜるように表面を感じる.うだるように熱い夏の日には,陽炎が立ち昇る.熱いきれの中を突っ切って置き去りにする.
たとえば,路上に放って置かれたもの.大小さまざまな小石や砂利.そしてゴミ.轍のように模様描くものや,無秩序に放りだされたもの.それらはさまざまに散在している.車輪が路上に置かれた小石のひとつを踏む.小石は鋭利な形のままに横にはじき飛ばされ,何かにあたって乾いた音をたて,地面におちる.そしてその場所で何事もなかったようにただ存在を継続する.
たとえば,道端の草や花.路肩のアフファルトの隙間に雑草が茂っている.誰からも振り向かれないかわりに,誰にも鬱陶しがられない忘却の茂み.それは乱雑に,自由に茂っている.花もそう.春には菜の花,夏には朝顔やひまわり,秋にはコスモス.誰にも従わず,誰にも催促されずに,ひっそりとではあるが確実に咲き乱れる.通り過ぎる自転車が運んでくる風に葉をわずかに揺らしながら,ただ黙って路上にある.
たとえば,通学の記憶.それは幼い頃の記憶.学校が終わった昼下がり,いつもの道をとぼとぼと歩いて帰る.それは日々往復する道.いつもの路上,いつも見下ろす路面.いつもの田んぼ.いつもの畑.いつもの段差.いつもの窪み.いつもの小石.いつもの段差.いつもの草.いつもの水たまり.いつものアスファルト.いつもの空き缶.いつもの風景.それらはすべて路上に刻まれた記憶.
この瞬間,自転車の上から眺めているこの路上.この道に寄り添うように住みついた人々にとってはいつもそこにある路面なのだろう.誰からも気にされることもなく,ただそこにそっと存在する.それはどこにでもあるようでいて,唯一ここにしかない路面.いつかどこかで通ったことのある路面のようであるのだけれど,どこかが決定的に異なる.
ふと我に返ると,目の前には,どこに続いているのかわからない,しかしどこにでも続いている路上がある.その遥か彼方に向かって無意識にペダルを回す.移動することのみを目的として,ただ移動する.どこに辿り着こうというのか.どこかに辿り着けるのかすらわからない.ただ,じっと路面を見つめ,車輪がたてる音に耳を澄まし,ハンドルから伝達されてくる振動を感じていると,それが過去の記憶へと続いているということに気付いて呆然とするのである.
:: 自転車から眺める路上(プロローグ)
┏ Bicycle 自転車
:: Long time no see!
┣ その他
それにしても,知らぬ間にseesaaのシステムが随分更新されたようで,再構築が自動化されてる.素晴らしい.
そうそう.これは,少し前に,zooomrのwidgetをサイドバーに貼り付けたときに気付きました.もしかして,他にも替わってるのかもしれません.
そのzooomrですが,ブログをサボっている間も写真だけはupを続けておりました.その写真は,サイドバーに表示されるようになっています.本文が更新されない間も,サイドバーでは写真が毎日更新されていた訳でして,よく考えると不気味な状態だったのかもしれません.ただし,それに気付いた人は皆無なのでしょうけど.
そのzooomrですが,今さらですが,写真共有サイトです.わかり易く言うと,flickrみたいなものです.
flickrと違うのは,twitterのような機能が付いているのでユーザー間の交流が取り易いということ(そこは,英語と日本語が入り混じったカオス状態!),それから結構写真好きなコアな人々が多いということ,それから,元々はアメリカで始まったサービスですがその拠点を日本に移してから日本のユーザーが増えていて日本語も通じるというところでしょうか.写真が好きな人(撮るのも観るのもどちらも,ケータイからでもOK),あるいは,ブログに掲載する写真保管場所としてもお薦めです.
はじめてみたいという人がいらっしゃったら,左サイドバーに表示されているアドレスまでメールを下されば,招待致します.遠慮なく.
追記:
コメントやメールをくださった皆様へ
お気遣い,感謝しております.ありがとうございました.
RSSフィードでご覧の皆様へ
機能追加もいいことばかりではないようで,広告が配信されるようになったようです.今までは更新していなかったので広告だけが送られるということはなかったかと思いますが,更新にあわせて広告もフィードされるようです.これはseesaaの都合ですのでどうかご了承くださいますよう.
:: 雪の日,自転車は路上を駆け回り,猫はこたつで丸くなる | riding on the snow
┏ Bicycle 自転車
この日の朝も天気予報には,雪のマークが出ていました.どうせまたガセネタで雨が降るのだろうと仕事にはクルマで出掛けました.
それが珍しく予報があたって,雪が正午少し前から降りはじめ,昼飯を食べるために一旦自宅に戻るときには結構な勢いで降っていました.昼飯を食べている間も勢いは弱まるばかりか増すばかり.あっというまに一面が真っ白に.
午後から会社に戻るのには,自転車の登場です.クルマで出掛ければ帰ってこられるかもわからなくなるし,おそるおそる運転するのも疲れます.まあ,というのは方便でただ自転車で雪道を走りたい一心なのですが.
雪中ライドは二年前(記事はここやここ)以来.すっかり忘れてしまったのですが,それなりの格好で出掛けます.といっても,いつもとあまり変わりませんが.
自宅を出て走り始めると,雪の中を自転車が走るのがそれほど珍しいのか,「自転車,自転車だよ」と言われているのを耳にします.まるでサーカスにでも出演しているような気持ちになります.そんなに珍しいのでしょうかね.一度自分でやってみるとわかると思いますが,雪の上を自転車で走るのは意外にどうもないです.もちろん,急ブレーキや車体を傾け過ぎると滑りますが,普通にまっすぐと走る分にはそれほど滑ることもなく走れます.今回のようにロード用のタイヤ(W25)のままでもへっちゃらです.
ひとつだけ失敗したのは(前回でも同じことをしてたようですが),SPDシューズで出掛けたことです.SPDでペダルに固定して雪の上を走るのは危ないということでフラットペダル側を使ったまではよかったのですが,途中途中足を着くので靴底のクリートの穴から雪が入ってきて,最後には中がベチョベチョに濡れてしまいました.
それにしても雪がどんどん降ってくる中,あまりにも楽しみ過ぎたようで会社には随分遅れて到着となったのでした.
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:: モンベル | サイクリングライニングパンツ
┏ Bicycle 自転車
先の記事 通勤ライドの朝と夜,どっちが寒い? では,
そこで,いきおい,フリーライドパンツで出かけて行くのです.
と書いたのですが,この フリーライドパンツ というのはモンベル製(れっきとした日本のメーカー)のパンツで,インナーパンツとして夏用のレーパンを履いた上にこれ一枚といういでたちでここ数年の冬を凌いでいました.足は上半身ほど寒さを感じないのでなんとかこれでも我慢できていたのですが,さすがに今年の寒さには勝てず,とうとう新たな秘密兵器を投入しました.
それは,これもモンベル製のサイクリングライニングパンツです.なぜかドラエモンの手になってますが,上の写真がそれです(カメラ担当は隊長).値段はフリーライドパンツより2,000円ばかり高くなりますが,その分暖かいです.その特徴は,なんといっても,”ライニング”というその名の通り裏地があること.フリーライドパンツはウインドブレーカーのような厚手の化繊の生地一枚だけなので履くときに若干冷たさを感じますが,このサイクリングライニングパンツには,フリースのような肌触りの裏地(ライニング)がついていて履くときも冷たくないどころか,暖かさすら感じます.表の生地がフリーライドパンツに比べると若干薄めですが,裏地がある分,保温性能は確実に上がっています.
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:: 通勤ライドの朝と夜,どっちが寒い?
┏ Bicycle 自転車
暦を見ると,寒さもやっと最終コーナーを曲がってバックストレッチに差し掛かったといったところなのでしょうが,まだまだ寒さ厳しい日々が続いています.
といっても,通勤ライダーとしてはそんな寒さに負けてはおられず,「今日は寒かった」とか「今夜はそれほどでもなかったな」と相変わらず”寒い寒い”と言いながらも,寒風吹きすさぶ中にエイヤッとばかりに,飛び出していきます.
そんな朝夕の通勤ですが,朝と夜,どちらがより寒いかわかりますか?
住んでいる場所や時間,天候によっても違ってくると思うので,前提条件をあげてみます.場所は愛知県三河地方の比較的海に近いところ,時間はというと,朝は7:00頃,夜は21:00頃といった感じです.この場合,朝・夜のどちらが寒いでしょうか?
早速ですが,答えは,夜です.なんとなくまだ温まっていない朝のほうが寒いように感じるかもしれませんね.実際の気温も,ここ最近は朝が3〜5度Cなのに対し,夜は5〜8度Cと朝の方が寒いです.でも体感としては夜の方が寒さを感じるのです.
なぜかと考えるに,夜は地上の大気の温度分布からなのでしょうが,朝方に比べて風が出てくることが体感温度を下げてるのではと思います.それから,太陽が出ていないという視覚的なものも影響があるかもしれません.とにかく,走りきったあと(朝なら会社,夜なら自宅ということになります)の体の凍え具合は,夜のほうに軍配があがるのです.
追記:もうひとつ理由を思いつきました.通常自転車に乗れば,その運動量だけで体が温まってきますが,夜は暗いので朝よりスピードを出しません.それによる体内での発熱量の減少が寒さを感じる要素のひとつです.
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:: 「写真0年 沖縄」シンポジウム
┣ camera talk
写真展,映画『カメラになった男 写真家中平卓馬』のあとはシンポジウムに参加.パネリストは比嘉豊光(写真家)・浜昇(写真家)・北島敬三(写真家)・小原真史(写真評論家・「カメラになった男 写真家中平卓馬」監督)・倉石信乃(写真評論家)の5名.
ここでは,パネリストの一人である倉石信乃が自身のブログでも書いているように(関連clip),「写真は”クリエーション”ではなく”ドキュメント”である」という議論に終始した.要するに,写真は"art"あるいは"作品"なのか,そうじゃなくて"artでない記録or記憶(ドキュメント)"と捉えるのかについての話だった(ただし,倉石氏は後日ブログで「私の選択した展示方法が比嘉作品を~」と”作品”と書いてしまっていてこれはピンボケ).
さて,このシンポジウムはとても濃密な時間だったのだけれど,これはこれで写真のアイデンティティに関わる奥の深い問題だなあと思う反面(結果はボウズだったが,帰宅後ドキュメントorクリエーションに関する情報を求め,検索の海をさまよったのも事実だし),まだこんなことにこだわっているのかということも感じた.なんだか勝手に仮想敵を作って挑んでいくような気がしたのも確か.こういう議論って,写真はアナログかデジタルかというのに似てる気がする.写真という世界にどっぷり漬かり,集中してるからこその議論だとは思うけど,傍観者から言わせれば,そんなのどっちだっていい.極論すれば,写真をはみ出して,その結果,それが写真と言われるものじゃなくなったっていいじゃないかと思った.
以前,小林のりおが自身のブログで次のように書いている.
いつの間にか「写真」が既存のアートシーンばかりを気にするようになって、美術市場という名の陳列棚に並ぶことが目標とされるような昨今のあり様にはウンザリしています。いつの間にやら違った道を歩いていたなら、引き返す勇気も必要かもしれません
と書いていたが,写真を"クリエーション"ではなく"ドキュメント"とする心象はこれの裏返しなのだろうか.
そういう意味では,内原恭彦が自身の写真集について,
作品集Son of a BITは、コンピュータ関連やアートやマンガの棚にならべてほしい
と写真集とかアートの棚じゃなくて,マンガなどのサブカルの棚の中に陳列されたいと書いていたが,この感覚の方がより共感できる(これは彼が写真を撮り始めて歴史が浅いということに関係があるのかもしれないけど).
こういった写真業界人の集まるシンポジウムというのを聴いたのがはじめてで,その狭さというか純潔具合に恐れおののいたせいがあるのかもしれないけど.中平卓馬を追った映画といい,このシンポジウムといい,久しぶりに知的興奮を覚えた一日だった.
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:: 『カメラになった男 写真家中平卓馬』
┣ camera talk
『カメラになった男 写真家中平卓馬』(小原真史監督/2003年/2006年初公開)
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写真展のあとは,最近の中平卓馬を追った映画「カメラになった男 写真家中平卓馬」と写真展にあわせて行われたシンポジウムに参加した.
映画「カメラになった男 写真家中平卓馬」の監督は,写真評論家でもある小原真史.なんでも愛知出身のようだ.この映画は,記憶喪失以後の中平に密着し,彼の生活や旅行の一コマ一コマをハンディカムで捉えたドキュメンタリーである.
残念ながら倒れる前の中平については何もしらないが,映画の中の中平は人のいいおじさんといった風情というのが第一印象.ビデオカメラを意識するでもなし,ビデオカメラなどないように振舞う姿が全編に亘って描かれている.
中平は常にカメラを抱え,シャッターを押し続ける.思い描く写真を求め,川のフェンスを登り,満足するまで撮り続ける.そして撮影に訪れた海岸では,観光客に頼まれれば記念写真のためにシャッターを押してやり,うまく撮れたかなあとビデオカメラに向かってつぶやき,はにかんでみせる(それにしても,なんと幸せな観光客であることよ).
映像を撮り続けるビデオカメラに向かって,中平はとても無邪気に振舞っているのだが,カメラと名前がついたその機材,すなわち,動画を撮るということに対しては,どういう風に感じていたのだろうか?
映画の中の中平の行動には気負ったところが全くなく,極めて自然体である.”カメラになった男”というタイトル通り,中平にとってシャッターを押すことが生活の一部と化し,呼吸したり,あくびをしたり,トイレに行ったりするのと同じくらい自然な行いのひとつになっているように感じた.
さっきも書いたように,この映画の中平は,ビデオカメラへの気負いがないばかりか,生活そのものが何か外界の戯言から切り離されて存在しているかのようである.それはビデオカメラを回している監督との信頼関係というものもあるのだろうが,中平の今の生活そのものなのだと信じさせるに足るものを感じた.ただ,シャッターを押すほんの数秒の瞬間を捉えたいくつかの場面では,紛れもなく写真を撮る者の姿こそがそこにあった.
さて,映画の中にその中平が沖縄へ行って,写真を撮りつつ,知り合いに再会し,写真展のシンポジウムに参加するという場面が出てくる.シンポジウムでは,東松照明,荒木経惟,森山大道など錚々たるメンバーと一緒に壇上の人となる中平であったが,その中でアラーキーもタジタジとなる存在感,突き抜けっぷりだったのは強烈だった.
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